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「差別」について考えてみる

“I have a dream that one day on the red hills of Georgia the sons of former slaves and the sons of former slave-owners will be able to sit down together at a table of brotherhood.”
というのは、1963年8月28日、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア(Martin Luther King, Jr)氏が、リンカーン記念堂へ向かうワシントン大行進で行った人種差別の撤廃と各人種の協和を訴えた演説の一節です。
これは“私には夢がある。いつの日かジョージアの赤土の丘の上で、かつての奴隷の子孫たちとかつての奴隷所有者の子孫が同胞として同じテーブルにつくことができるという夢です。”という意味です。
当時、リンカーンの奴隷解放宣言から100年たっても、アメリカでは公然と人種差別がまかり通っていました。黒人は、バスやレストラン、学校やトイレなど白人と同じものを使うことは許されていませんでした。それがたった50年前というのには、驚きを隠せません。
 
こんにちは、櫻井です。今日はちょっと趣向を変え、ただただ考えを書き綴ってみたいと思います。今回は健康とはあまり関係のないお話ですが、よろしければおつきあいください。
 

 
『差別』はいつの時代にも存在し、また、今も世界中から無くなることはないようです。そして誰にでも差別者になる危険性が潜んでいますし、被差別者になってしまう可能性も含んでいます。それは「差別」と意識されずに、私たちの頭の中に当たり前の“常識”として組みこまれているかもしれないからです。
私たちは、そんな意識はなくとも、差別的な考えや発言を行っているかもしれません。私たちの常識は、一歩外に出ると非常識になる場合もあります。広い世界には、お箸を使わず手で食事をする人たちがいます。しかし、もし日本人の私たちがそれを知らずにそういた光景に出合ったなら、「箸を使えない人・野蛮な人」と、見下してしまうかもしれません。それは、理解できないことは、自分の固定観念や常識を再構築するより、排除し見下す方が精神的には楽だからではないかと私は考えています。
 

 
差別とは一体なんでしょうか。
いつもお世話になっているwikipediaを見てみると、
『正当な理由によらず偏見や先入観に基づいて、あるいは無関係な理由によって特定の人物や集団に対して不利益・不平等な扱いをすることを指す。』とあります。この定義では、差別は行為です。百歩譲って、もちろんない方が良いのですが、考えているだけなら何も問題はないとします。しかし、その考えに伴った行動・言動が差別に値するとこの定義は言っています。
偏った情報源をもとに作られた固定観念をステレオタイプといいます。ステレオタイプというサングラスで見た世界は、常にその色に染まって見えてしまいます。例えば女性はこう、男性はこう、という“常識”というステレオタイプがありますが、それはとても小さいコミュニティーの中だけに通用する共通認識であることが多くあります。そう考えているだけではそれは差別には当たらず、ただの固定観念でステレオタイプですが、それを他者へ適用しようとした時点で、差別をしていることになります。
例えば、男と女。性には二つの存在がある。それがあたりまえだと私たちは教えられてきました。みなさんも、性別の欄に男か女か丸を付けますね。それが日常的に行われていると、それ以外の性別は排除されていることには気が付きません。男性の女性的な面は、「男の子は泣いちゃいけない」「男の子が弱音をはくんじゃない」「男の子なんだから、ピンクなんてやめなさい」という親や周囲の言葉で否定され、それがインナーボイスとなり、男性観を形成します。「男とはこうあるものである」という考えが植えつけれら、「泣くようなやつは男じゃない!」「ピンクなんてもってる!男女!!!」などと、自己の常識を再構築するよりも簡単な、自分の中にないものは排除するという行動を生み出し、いじめが発生するかもしれません。
しかし、国や文化が変われば視点は全く変わります。例えばタイでは、中性というのは確立した性で、なおかつ宗教的崇拝さえもうけると聞きます。それは仏教国という宗教的背景(ヒンドゥー教のシヴァ神は両性具有で、シヴァ神は仏教では大黒天とされています)がそこにあり、女性でも男性でもない存在はより神に近い存在として考えられているからだそうです。確かにお釈迦様の仏像は性別を判断しにくい中性的な表情をしています。そんなタイでは、もちろん同性愛者や男っぽい女の子や女っぽい男の子に対してのいじめなんてないのかもしれません。
 

 
ゲルマン人のユダヤ人への迫害しかり(これはキリスト教によるユダヤ教の迫害という宗教的差別も背景にあります)、ルワンダでのフツ族によるツチ族の虐殺しかり、「差別」は時に特権意識を生み出し、そして絶対的優位意識にたったものが異常行動を起こす事態にも発展しています。その根源をつきとめることは容易ではありませんが、「自分と他者を区別している根本」が人格によるものではなく、肌の色や性別など本来生まれ持ったものであるという妄想のような彼らの『常識』が生み出したものなのではないでしょうか。肌の色が薄いのは劣っている証拠だと。人種が違うのは劣っていると。自らが帰属するある一定の枠に収まらないものは、間違っているという考えです。その感覚が、高くはない自尊心を満足させてしまった結果、特権意識が生まれるのではないでしょうか。
 
自分の理解できないものを排除するというのは、形成された自己を守るというある一種の防衛本能です。新しいことを理解するというのは、理解の再構築が必要ですが、その再構築が、性別や人種などの自己の基盤に近い場所で行われることであればあるほど、再構築は容易ではなく(世の中のすべてのものに対して、基礎的概念を覆すことになるので)、排除する方が楽というように考えるのかもしれません。人は、暗闇に恐怖を感じるように、知らないもの、そして自分の理解できないものに恐怖を感じます。それは自己を守るために必要な本能というべきものの反面、怖いものは排除しようとするある種の副作用もあります。これが『差別』につながるのではないでしょうか。
 
私は、存在を理解する必要はなく、ただ受け入れるだけで良いと思っています。「リンゴ」と言っても、あなたの頭にある「リンゴ」と私の「リンゴ」が同じものではないように、人と人は完璧に思考や考えを共有することは出来ません。共有できているという錯覚で成り立っているだけで、そうでなければ立ちゆきません。それならば、元々、私たちが生まれてきてから現在に至る段階で、男女という性差も理解したわけでなく受け入れてきたように、すべての性別や人種、文化の違いも受け入れればいいだけのことです。「男が男を好きになるなんて考えられないんだよなぁ」なんて耳にしますが、考えてもしょうがないので、受け入れて、共有部分でのルールを作って、共存する。というのが私の中での結論です。
 

 
計らずとも、キング牧師が演説を行ったちょうど45年後の2008年の今日、8月28日に、バラク・オバマ上院議員が、アフリカ系として初めて民主党全国大会でアメリカ合衆国大統領候補に指名されました。歴史の裏に隠れる何かを感じたニュースでした。「差別」のことをもう一度考えてみる良いきっかけの一日になればと思います。
 
 

2013/08/28

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